エキスパートドクター

あきたの医療の担っている様々な分野のエキスパートドクターをご紹介します。
第一線で活躍されている先生方にお話を伺いました!

No.01H25.7掲載日

秋田大学大学院医学系研究科
保健学専攻 臨床看護学講座 教授
戦略的外科系医師養成プログラム
秋田大学医学部附属病院
緩和ケアセンター長

安藤 秀明
先生

研修医時代は、
先輩と夜遅くまで手術や診療や
人生における大切な話(逸話?)などを聞き、
楽しい毎日でした。

安藤 秀明 先生

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医師になろうと思ったきっかけはありますか?
子供時代

医師になろうと考えたのは、保育園時代に父から買ってもらったブリタニカ百科事典が出発でした。それも原書(英語)で全巻30冊余り。当然、文章は理解不能なのでイラストや写真を楽しんでいました。その中でも興味を持って何回も見ていたのが、熱帯魚の項目と人体解剖の項目でした。
そして、この頃病弱で、入退院を繰り返していた曾祖母を見ていて、百科事典片手にどこが悪いのかなあと考える保育園児でした。勿論、保育園のお絵かきでは、熱帯魚を書いて、英語で魚の名前をサインしていました。
その後、熱帯魚を飼育し、海外から熱帯魚を仕入れて繁殖・販売。高校生の頃には熱帯魚専門誌に飼育法などを原稿依頼され、熱帯魚ブリーダーの道も歩んでいました。そこから、医療の道に再度導いたのは、父の病死とブラックジャックです。父はアルコール性肝硬変による静脈瘤で出血死。突然の死であったので、その病態を勉強。また、その頃連載されていたブラックジャックは、困難な病気を明快に治してゆく。これは、医師になるしかなかったわけです。

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医学生から研修医のころ、どのようなことに興味がありましたか?

雪国新潟で過ごし、もう寒いところでの生活はうんざりしていたのですが、何故か秋田大学に入学し、医学を学ぶことに。大学での実習中に、肝臓外科手術を見て、手術もさることながら、周術期管理が手術と同じくらいに大切であることを感じました。そのため、ブラックジャックにもあこがれていましたが、当初は術後管理に興味がありました。
当時、自分が学びたかった肝切除はあまり一般的な術式ではなく、全国でも限られた施設でしか行われておりませんでした。「少しでも暖かい土地で暮らしたい!」という気持ちはありましたが、秋田大学の第一外科に残りました。私と同時に6名入局。約半年間を消化器外科・小児外科で研修。ここで、採血、静脈確保、中心静脈カテーテル挿入、消化器検査、術前評価、周術期管理を学びました。手術は週2件程で、術後は患者管理のため病院に泊まっていました。勿論、患者管理をするのであるが、先輩と夜遅くまで手術や診療や人生における大切な話(逸話?)などを聞き、楽しい毎日でした。

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大学研修の後はどのように過ごされましたか?

半年間の大学研修後、研修医6名は助教授室に呼ばれ、あみだくじで研修先が決められました。
自分の1年間の研修は市立秋田総合病院外科でした。外科スタッフの中で一番の下っ端でしたが、約半年間手術助手を担当させて戴き、その後徐々に執刀させていただきました。一番の若手なので、外科関連の救急や病棟からの連絡はほとんど私に来まして、本当に忙しくはありましたが、何となく自分が外科を支えているような充実感を持ちました。しかも、夜間の臨時手術後は、お疲れ様と言いながら、深夜から夜明け近くまで、共に働いたメディカルスタッフの方々と飲み歩いていました。
結局、ここで200例程の手術を経験し、外科学会専門医取得症例のほとんどを稼ぎました。またAKTからの依頼で、船医として約1週間病院から派遣された。船員手帳で出国し、太平洋上で勤務。トビウオが甲板に飛び込んだり、イルカの群れに追跡されたり、360°水平線という景色は想いで深いです。
一般病院での研修終了後は大学へ戻り、日中は病棟で働き、夜は実験室で研究という生活に。肝臓に関わる生化学的研究を行い、夜は低温実験室で暮らしていました。夏は良いのですが、秋から冬にかけてはつらい仕事でした。
学会活動は、卒後3年目に国際学会で発表。他人の発表は十分な理解は困難であったが、自分の内容は自分が最も詳しいと自負していたため、あまり不安を覚えることはありませんでした。しかし、一度、韓国での学会で、演者の到着が遅れ、5分の発表のところ30分も座長・会場とディスカッションさせられた時は忘れられない出来事です。 この頃から、手術技術もさることながら、治療戦略を十分考えてデータを学会で発表している諸先輩に憧れ、究極の目的を、消化器外科学会の評議員(論文や学会発表を点数化して選考される)を目指しました。

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様々な地域に赴かれたとのことですが、どのようなところに行かれましたか?

学位論文完成まで、大学での夜間実験を基軸として、県内外の中小規模病院へ短期出張を繰り返しました。
短期出張先の白根病院では内視鏡と超音波検査の技術を磨き、田沢湖病院では、麻酔と整形外科の修練の場となりました。礼文島では、究極の遠隔地医療として離島での医療を体験し、外科・内科・小児科診療は当然のこと、産科診療も行いました。
その結果、現在行われている臨床研修制度の様なローテーションをすべて体験することができました。この時期に多くの施設(地域)で、多くの先輩方に指導を受け、各々の地域・施設・指導者の特性を修練できたことは、その後の診療や事象の考え方にかかわる多様性を身につけるために非常に大切な体験となりました。
論文完成し、医学博士となったあとは、手術技術修練のため、青森県立中央病院外科に赴任。救命センターが併設されていたので、メインは消化器・乳腺・甲状腺外科でしたが、頭部外傷や心臓血管外科の緊急手術にも数多く参戦しました。
連日3~4件の手術に参戦し、帰宅は連日11時過ぎ。手術の腕と度胸が付き、6ヶ月で20 kg体重減少のダイエットが敢行されることになりました。一時、周りから「なにか病気ではないか?」と心配されるほどでしたが、至って元気で、毎日バリバリ手術をこなし、夏はねぶたをハネて、冬は連日朝夕2回の雪かきを行いました。

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その後、現在までのキャリアを教えてください

青森の生活は本来3年以上という予定でしたが、後輩の研究指導ということで、1年で終了。しかし、消化器外科専門医を取得するに十分な症例を経験できました。
秋田大学へ帰ってきてからは、研究指導と肝胆膵手術・腹腔鏡手術に従事。当時、腹腔鏡手術は胆嚢摘出術が普及し、胃腸・肝・膵手術へ応用される黎明期でした。そのため、腹腔鏡手術の研修のため、他施設見学や海外の学会で情報収集・施設見学を行いました。この成果を内外の学会で発表。その業績で消化器外科専門医、アメリカ外科学会会員、そして目標であった消化器外科学会評議員になることが出来ました。これらの業績は、多くの人達から教えられ、支えられた結果であると考えています。
その後は、2003年から若手外科医育成のため、中通総合病院に赴任。包括的がん治療を目標に手術のみならず、化学療法や緩和ケアにかかわり、他診療科やコメディカルとチームを組んで横断的活動を行いました。多くの若手外科医が育ち、多くの後期研修医が集まり充実したチームが編成されました。しかし、秋田県の外科医不足改善のため、2010年8月から秋田大学に復帰、現在に至ります。

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至福の時はいつですか?

風景や動植物の写真撮影。撮影した写真を確認してこれを整理したり、Webで公開するのが一番の至福の時でしょうか。おいしいレストランを探すのも大好きです。旅先などで、おいしく雰囲気の良いお店を発見できたときはとても幸せです。

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履歴書

出生地:新潟県新潟市

1981年
新潟県立新潟南高等学校卒業
1988年
秋田大学医学部卒業
1988年
秋田大学 医学部 第一外科  研修医
1989年
市立秋田総合病院 第一外科  医師
1990年
秋田大学 医学部 第一外科 医員
1992年
能代山本医師会病院 外科  医師
1992年
秋田大学 医学部 第一外科 医員
1994年
医学博士取得
1994年
森県立中央病院 外科   医師
1995年
秋田大学 医学部 第一外科 医員
2000年
秋田大学 医学部 第一外科 助手
2003年
秋田大学 医学部 外科学講座 消化器外科分野 助手
2003年
中通総合病院 外科 科長
2004年
中通総合病院 緩和ケアチームリーダー兼任
2007年
中通総合病院 医療安全管理部長兼任
2010年 8月
秋田大学医学教育部 地域医療連携学講座 准教授
秋田大学医学部附属病院 消化器外科
2010年 9月
秋田大学大学院医学系研究科 戦略的外科系医師養成プログラム 准教授
2013年 4月
秋田大学医学部附属病院 緩和ケアセンター センター長兼任

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