エキスパートドクター

あきたの医療の担っている様々な分野のエキスパートドクターをご紹介します。
第一線で活躍されている先生方にお話を伺いました!

No.15H26.3掲載日

秋田厚生医療センター 副院長
秋田県総合診療・家庭医研修センター長

齊藤 崇
先生

「臨床」「診療」というのは
医師としての根幹、核になる部分

齊藤 崇 先生

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医師になろうと思ったきっかけは?

大学にいた頃に入試の面接官を10年前後やり、今は研修医の採用試験でも似たような質問を皆にしている立場のくせに、実は自分のことはよくわかりません。多分、医師を目指した理由はひとつではないのだと思います。
小学生の頃から今に至るまで母がひどいリウマチで苦しんでいたこと。また秋田大学に医学部設置が決まった頃は中学生でしたが、秋田大学事務局に勤務していた父が医学部設立準備室の担当になり、様々な苦労を見たり、全く新しい理念で新しい医学部を創り上げるというような話を聞いたりしていたことが、当時はあまり意識したことはありませんでしたが、今思うと多少方向付けに影響があったかもしれません。
もうひとつ、他者への思いや必要とされる存在に成りたいということはもちろんですが、たとえ一人でも誇りを持って生きて行けそうな仕事というところにひかれたからです。

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どのように研修医時代を過ごしましたか?

4期生なので、大学にはいってしばらくの間は卒業生がまだ出ていなくて、各教室も教官ポストが埋まっていないという状況でした。今では想像できないことですが、県内の各病院は東北大、新潟大、弘前大と既存の大学ごとに色分けされており、若い教官たちから就職先はおろかアルバイト先すらろくにないと脅され、同級生の中には「どこに行ったらちゃんとした研修ができるのだろうか」と不安にかられてあちこち見学に行く人も少なくなかった時代です。

4年生になった頃、平鹿病院の林先生が心電図の講義にいらした時にちょっと臨床研修の話が出ました。「県内でもそういうところがある」ということを初めて知り、相談に行くと「一度見学に来てみるか」ということになりました。たしか4年生の夏だったと思います。
行ってみると、当時の県内では珍しくローテーション研修が行われ、研修講義等もきちんとされていることもわかり、「ここしかない」と思ってしまいました。
県南生まれで親近感もあったのかもしれませんが、林先生に「卒業したら行きたい」と相談すると「大歓迎だけれども秋田大学からはまだ誰も来たことがないし、将来学位をとったりする時に困るかもしれないから、第二内科に籍をおいた形にして来たらどうだ」ということになりました。早速、第二内科の金澤教授に相談に行くと「彼は私の弟子だし大賛成だ」と言ってくれました。

卒業後、大学病院でのオリエンテーションの後、同期から2ヶ月くらい遅れて平鹿に行きました。当時の平鹿は消化器が第一内科、それ以外は全部第二内科という構成で、小児科の常勤がいないという状況だったので、救急や小児科を含めて内科系一般を研修するにはむしろ好都合な一面がありました。今の総合診療方式に近かった訳です。外科も回りましたが、平鹿は外科系研修医にとっても重要な病院となっており、初めから外科をめざして来ている人も多いせいか、内科系志望だと初めから扱いが違ってもっぱら雑務担当という感じでした。
卒業1年目から多い時で30人近い患者の病棟主治医を一人で務め、外来も1年目から週1回はあって、当直も一人で全科当直でしたから朝早くから夜遅くまで、ものすごく忙しい毎日でした。必死で毎日勉強もしました。一生分の勉強の内の何分の一くらいはこの時にしたような気さえします。

研修医の食事は朝昼晩3食、病院の給食でしたが、夜は遅くなると巨大な電子ジャーの電源が切れていて、大学を卒業して初めて一人暮らしをしたこともあって一人食堂で冷たいご飯を食べるのは寂しくて辛くて、研修医仲間としょっちゅう病院近くの小料理屋に繰り出して食べるというか飲んでいました。ツケのきくところで一ヶ月の支払いが10万、20万になり、今はないようですが当時は強制的に天引き貯金させられる制度があって一口10万、最低二口以上といわれていたので(研修医の多くは東北大出身で、大学に戻ると医員の籍もなく無給のことも多く、その時に困らないようにとの病院の親心で始まったらしい)、残金ゼロどころかマイナスになることもありました。

それから、研修医仲間は皆独身寮にいましたが、私は大学に籍をおいていたためか一人だけ妻帯者のはいる医師アパートにおかれ、部屋数も多かったので、研修医仲間や病棟スタッフがしばしば押しかけて来て、一時宴会場のようになっていたこともありました。皆で鍋をやったりして楽しかったのですが、あまりにうるさくてご近所から苦情が来たらしく、指導医の先生に「君は勉強に来たんだろう」と叱られて中断となりました(実は騒いだのは決して私ではなく某先輩諸氏なのですが言い訳は効きませんでした)。

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どのような経緯で診療科を決めましたか?

内科一般を研修するつもりでやっていましたが、学生時代から医者の象徴である聴診器ともうひとつ、心電図に強くひかれました。そのための平鹿であり、第二内科でもあったわけで、自然と「循環器内科に行く」と本人も周りも見ていたような気がします。
高校時代、物理と数学は苦手だったはずなのですが、多分、心臓生理、特に心電学や心力学の理路整然としたところに感動を覚えていたような気がします。

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留学をされた経緯と振り返ってみてのご感想を教えてください

同級生達の影響で学生時代から漠然と留学したいという思いは持っていて、ECFMGのテキストやNHK英語講座のテキスト等は買っていましたが、最後までやり遂げる程まじめではなく、パラパラ見ていただけで、そう簡単には行けるはずもないと思っていたような気がします。

平鹿の研修の後は大学院に入ったんですが、恩師の教授は病歴や身体診察、心電図読影など実地臨床を非常に大事にされる一方で、同時に必ず実験研究することを我々に求めていました。どちらも大事だという訳です。「君たちには必ず留学してもらう」とも常々おっしゃっていて、実際、医局の先輩達は次々留学していて、ひとつ上の学年の先生二人と同期も既に2人留学していました。

そうした周りの雰囲気だけでなく、学位論文をまとめるために英語論文をおそらく数百以上は読んだと思いますが、向こうの研究室はやっぱりすごいなと思う部分がある一方で「なんだこれくらいは自分でもできるな」と思うところがあり、留学するということが次第に現実的なことに思えてきました。
大学院を修了して1,2年経った時、心電学会のYoung Investigator Awardに相当する木村栄一賞をいただいた関係らしく、カナダの心臓財団から留学の話がありました。各国からのCompetitionになっていて、結局その話は流れたのですが、直後にロスアンジェルスから誘いがありました。第二内科の講師で心カテを指導いただいた池田先生が以前留学されていたハンチントン医学研究所からでした。



DirectorはBing教授というとても高名な先生で、心臓カテーテルを始めた方ですが(Bingという名前のついた先天性心疾患の症候群がふたつほどあるようです)、一方で心臓の生化学、心筋代謝研究や微小循環研究の創始者でもあり、何度かノーベル賞の候補にもなっています。USCの内科教授の他、当時UCLA, カリフォルニア工科大学(Caltec)の教授もされる一方、交響曲、ピアノ協奏曲なども作曲される多才な方で、つい最近102歳でなくなりました。ビルゲイツが尊敬していたそうで、Microsoftの検索エンジンにその名前がついています。

あまり偉すぎたのと年齢が孫子ほどに離れていたので最初かなりとっつきにくかったのですが、顔の広さは超一流でいろいろな場面でずいぶんお世話になりました。
これがやりたいといえばすぐどこかに電話して手配してくれ、その日のうちにいろんなことが可能となり、研究環境としてはありがたかったです。本拠はハンチントン研究所でしたが、1年目は午後ほぼ毎日カリフォルニア工科大学(Caltec)の生化学教室に、2年目はUCLAの薬理学教室、丁度NOでノーベル賞をとる仕事をしていた頃のIgnarro教授の研究室にも半年ほど通わせてもらっていました。
昨年、ハンチントン病院でその頃生まれたという学生がレジナビの時に来てびっくりしました。たしか今は県内病院で研修しているはずですからずいぶん時間がたったものです。

CaltecもUCLAもノーベル賞受賞者、しかもまだ現役で研究している人たちがゴロゴロいるところで、このくらい差があるのかと思い知らされたことも事実ですが、個人の資質ということでみるとそれほど日本は遅れているわけではないのかもしれないと思ったこともまた事実でした。
しかしながら、日本にいる時はろくに寝ないで仕事をしても英文の論文を一つ書き上げるのがあれほど大変だったのに、こちらでは8時半から4時半まで、しかも週休2日、休暇もきっちり取るのに一、二ヶ月で論文が上がっていく、もちろん、言葉の問題もあるのですが、大事なのはシステムとatmosphereだと思いました。研究生活は比較的時間的余裕があったので、研究室に出入りしていた病院のレジデント達ともつきあって病院にも顔を出していましたが、専門領域の知識となるとストレートで専門に進んでいる日本の同世代と比べ少し浅い印象はあるもののさすがにgeneralな知識、そしてプレゼンの技術に関しては圧倒的に優れていると感じました。

研究あるいは海外の臨床現場に興味がある人はもちろんですが、機会があれば、あるいはなくても損得抜きで人生勉強の場として自分を磨くために留学されることを強く薦めたいと思います。

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先生のライフワークを教えてください

50歳近くまで大学にいたこともあって、「臨床(診療)」はもちろんですが、「研究」や「教育」の世界の楽しさ、大変さも経験してきました。
ただ、40歳くらいになった頃に考えたことは、「研究」はもちろん大事ですが、「今すぐでなくて将来的にでも、直接的な意味で社会に還元できる仕事をする。それを最後までやり続けられる才能のある人というのはおそらく一握りなのだろうな」としみじみ思うことがありました。
それに対して「臨床」「診療」というのは医師としての根幹、核になる部分であって、形は様々あるのかもしれませんが、医師をやめるまで、そして多くの人は元気なうちは(時に死ぬまで)逃れることはできない部分なのだと思います。

最後の「教育」ですが、これはむしろ大学を離れた後にその重要性に気付いたという感じがしています。これは決して卒後臨床研修の担当をしているからという訳ではなく、医師としての仕事そのものが「教育者」の側面を強く持っていると言うことを最近感じてきたからです。

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履歴書
出生地
秋田県 生まれは大仙市(旧西仙北町強首)ですが、
育ちはずっと秋田市、千秋公園のふもと、千秋北の丸で、
幼稚園から大学までほぼ徒歩通学でした。
出身高校
1973年 秋田県立秋田高等学校卒(体操部)
出身大学
1979年 秋田大学卒(4期生)

卒業後の職歴

1979年5月
平鹿総合病院、秋田大学附属病院にて初期研修
1981年4月
秋田大学大学院 入学
この頃、市立秋田総合病院、渡辺病院(現 南相馬市)、
男鹿市立病院などに出張しました
1985年3月
秋田大学大学院修了 (医学博士)
1985年4月
秋田大学医学部附属病院 第二内科助手
1985年10月
秋田大学医学部附属病院 第二内科医学部講師
1987年6月
米国 南カリフォルニア大学・ハンチントン記念病院
 / ハンチントン医学研究所 研究員 (Pasadena, CA, USA)
1991年10月
秋田大学医学部附属病院 第二内科講師
2000年1月
秋田大学医学部内科学第二講座 助教授
2002年7月
米国 ウィスコンシン医科大学 内科客員教授 (Milwaukee, WI, USA)
2004年7月
秋田組合総合病院 副院長
2005年4月
秋田大学医学部臨床教授
2012年4月
秋田県総合医・家庭医研修センター長 併任

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