エキスパートドクター

あきたの医療の担っている様々な分野のエキスパートドクターをご紹介します。
第一線で活躍されている先生方にお話を伺いました!

No.17H26.4掲載日

本荘第一病院
消化器センター長 外科診療部長
研修サポートチームリーダー

柴田 聡
先生

「未来の自分」を基準として方向を決めた方が、
遣り甲斐のある楽しいキャリアに
なるのではないでしょうか

柴田 聡 先生

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少年時代はどのように過ごしましたか?

地方銀行で働く父の転勤に伴い、秋田県内を転々としていました。秋田市の高清水小時代は、クラスでイベントがあるたびに、友人とパフォーマンスを披露したり(「すれ違う時に肩がぶつかり喧嘩になる二人」という寸劇が十八番)、「忠臣蔵」の監督をしたり・・・。当時から、「皆の前で何かする」ことが好きだったようです。
中学2年からの二年間は男鹿市の北浦中学校に転校し(自宅は北浦漁港から走って10秒)、釣りに明け暮れる日々でした。網元に連れて行っていただいた漁の帰り、船上でさばいて食べたイカと、漁の後、番屋で食べた朝食(とれたての刺身とザッパ汁)は本当にうまかった!

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医師になろうと思ったきっかけを教えてください

公私の隔てなく激烈な勤務に明け暮れる父の姿を見て「会社員にはなるまい」と決心。秋田高校入学後、国家公務員・弁護士・医師への道を考え始めました。そのなかで、医療職は自分を100%犠牲にして他人(ひと)のためにつくす特別な資質が必須で、自分には無理と考えていました。
そんな時に再放送されていたTV番組が田宮二郎主演の「白い巨塔」でした。浪速大学第一外科の内外に登場する医師達は十人十色、ドラマだから話半分としても十人五色!病院とは「いろんなキャラクターが存在する世界であり、自分のような普通の、不完全な人間でも受容されるのでは」と思い直し、医学部進学を真剣に考え始めました。

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大学時代はどのように過ごされましたか?

勉強よりもバドミントン部の活動に重きを置いた6年間でした。選手としては、団体メンバーに選ばれない程度でしたが、巡り合わせで主将を務めることになりました。
名実共に中心選手だった先代の後を継ぎ、テニス部に次ぐ大所帯を率いる、団体メンバーではない主将・・・。今思い出しても、胃が痛くなりそうな環境ですね。
主将を務めた間、選手としては活躍できませんでしたが、新規事業の立ち上げで頑張りました。名前と住所と電話番号だけの事務的な内容だった普通の名簿から、種々の情報を盛り込んだ「読み物として面白い名簿」への変更と、岩手医科大との定期戦の立ち上げです。



不向きなpositionでも、自分の持ち味を発揮すれば実績を残せるという貴重な経験をした1年間でした。ちなみにその二つの「新規事業」は、今では「28年程の歴史を持つ伝統行事」になっているようです!バドミントン部のつながりは卒業後も続いており、現在はOB会事務局として活動しています。

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外科医を志したきっかけは?

身につけた「技」で患者さんを治すことができる外科医への漠然とした憧れが、医学部3年次に母が胃がんで手術を受けた頃から、現実的な希望に変わっていったように記憶しています。
しかし、6年次の第一外科実習で、当時の教授執刀手術の第三助手を務めた際、「自分には無理かも・・」と、絶望的なほどの差を感じ、外科を諦めようかと思いました。しかし、よ〜く考えてみると、教授は自分の25年先輩ですから差があって当然!しかもその差は落胆すべきではなくむしろ喜ぶべきーつまり、25年間の蓄積は、「おっ!これならボクにもできそう!」と学生に思われるようなピクニック気分の丘ではなく、目の前に立ちはだかる二千メートル級の山であるべきーと思い直し、”憧れの”外科医への道を選びました。
あっという間にその25年間が経過し、あの時の教授に(年齢が)追いついてしまいました。僕が登っている山は、教授が極めた山ほどかっこ良くはありませんが、それなりに登り甲斐のある名山と自負しています(今、九合目付近を登っているつもり)。

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研修医時代はどのように過ごされましたか?

秋田大病院消化器外科で半年、引き続き秋田組合総合病院外科で1年間、計1年半の初期研修でした。
秋田大学では、診療と病院生活(特に人間関係)の基礎を学びました。当時の大学病院の研修医はヒエラルキーの最下層に位置しており、医師の仕事の他に、看護師、技師、薬剤師のdutyではない(けど、誰かがやらなくてはならない)仕事を一手に引き受ける「病院の雑用係」でした。その結果、「普段はベッドサイドに張り付いているが、何かあれば院内のあらゆる箇所に自ら出向く」スタイルが確立されました。これって、今流行の多職種連携の原型(一方向バージョン)なのかなと最近思っています。全ての職種が、あの時の僕たちのように動けば、相互的連携が生まれるのではないでしょうか。
その頃の秋田組合総合病院は、今と異なり、超多忙ではない環境でした。その結果、一人一人を丹念に診て、やる時は徹底的に、しかし、休む時はしっかり休む、減り張りのある研修生活を送ることができました。今の研修医もそうあるべきと思っています。

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海外留学の思い出を教えてください

一言で表すと「栄誉」と「後悔」です。
米国University of Minnesotaの移植外科にある膵・膵島移植研究所で2年間過ごしました。予算200万ドルの研究(豚同種膵島移植)を神戸大のDrから引き継ぎましたが、当初の結果は惨憺たるものでした。
「なんでこんなに拒絶されるのか?」と疑問に思い、患者さんと同様、豚さんの術後回診を行なってみました。すると、最も肝心な「免疫抑制剤」の投与が、外科のテクニシャンから多くのバイト学生(医学部進学を希望している他学部の学生)に丸投げされていて、学生のレベル(技術、熱意、経験)によってコンプライアンスがバラバラである事に気付きました。テクニシャン、バイト学生と一緒に免疫抑制剤投与法を工夫した結果、全員の技術、熱意、経験がレベルアップし、その後、実験は順調に進みました。現場で、人と人が直接顔を突き合わせて話すことが最も大切であることを再確認した一件でした。  2年間で最大の栄誉は、その結果をアメリカ移植学会でプレゼンしたこと、ではなく、クリスマスに研究所で開催されたプレゼント交換会で栄冠を勝ち取ったことです。欲しい物のイニシャルを書いて提出し、他の誰かが出した紙を一枚引いて、そこに書かれているイニシャルに当てはまる物を買うか(5ドル以内)、作るかして、その面白さを競う、というルールでした。

私が希望したのは、一歩間違えば国際問題に発展しかねない危険な希望、「USA」。それを引いた秘書は、まるで星条旗のようなシマシマの布でエプロンをつくってきて「Useful Striped Apron」と!わたしは、DG(提出者の意図はDiamond & Gold)を引き当てて、膵島分離に使う溶液、Density Gradientのレシピを(米国的に)おもしろおかしく書いてプレゼントし、見事優勝(費用0ドル)!記念品は、いまでも大事に保管しています。
そして、2年間で最大の後悔は、「Winnerは聡!」といわれ、記念品をいただいた時に、「Thank you!」しか言えなかったことです。アカデミー賞授賞式のように、記念品を手にしつつ、受賞の喜びをスピーチすべきであった・・・許されるならあの瞬間に戻り、1分くらいスピーチをして、笑いを取りたい。

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趣味は何ですか?

長距離移動:北陸までなら車で出かけます。
芸能活動(忘年会等):研修医1年目(秋大病院)は、とんねるずの仮面ノリダーのパロディーで「仮面シバダー」、2年目(秋組)ではWinkの「淋しい熱帯魚」、今世紀にはいってからは、当院の忘年会で、とんねるずの矢島美容室「ニホンノミカタ」、少女時代の「Gee」等で、毎回センターを務めて参りました。 しかし、2013年の秋大医学部バドミントン部忘年会でAKBの恋するフォーチュンクッキーをOB&OGで演じた際、ステージの形状上やむを得ず舞台袖で踊ることになりました。袖から見た景色は、いつもの舞台中央からのそれとは異なり、華やかさはないものの会場全体を冷静に観ることができる素晴らしい環境でした。芸の幅が広がった、と感じました。センターと舞台袖、両方の経験を生かし、今後は後進の育成に尽力しようと、決意を新たにした次第です。医師の育成と同じですね。

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診療をする上で大切にしていることを教えてください

一、外科医に必要なものは、体力や瞬間的な決断力ではなく、思考力・心のスタミナ。
一、執刀医は、手術室にいる全員が、その時点での最高のパフォーマンスを発揮できるよう、場をコントロールしなくてはならない
一、自分にとっては、日常的な行為でも、患者と家族にとっては、生涯一度、人生をかけた大一番
一、簡単にあきらめない!あらゆる可能性を総動員。ただ、「やり過ぎ」は禁物。
一、(入局時の教授から)「(医師としては)何のためにもならないコトに一生懸命になることができる、「ゆとり」、「余裕」が必要!」(秋大駅伝大会の打ち上げの席で)
一、(医局の先輩から)「ホンマにこれでええんかいな?」

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現在はどのような活動をされておりますか?

1)外科医として
肝胆膵外科を中心とした消化器外科が活動の中心です。研修医の頃、「自分の出番はないかも」と思っていた肝臓や膵臓の手術を日常的に行っています。学位研究で約3年、留学で2年、消化器外科臨床を離れた時期がありましたが、こつこつと続けているうちにいつの間にかこうなっていました。という事は、たとえば、出産と育児で3年、2番目の出産で2年休んだとしても、僕程度の外科医にだったらなることができるかも、ということですね。始めたら半分成功、あとの半分は止めない事!

2)おうち中心
今までは、手術室、病棟、そして外来が活動の中心、と考えてきました。しかし、患者さんにとって最も大切な場は「おうち」です。今は、患者さんがおうちに戻り、以前とほぼ同じ生活を送ることができて初めて「手術成功」と考えるようにしています。

3)消化器センター立ち上げ
消化器内科と外科を融合した「消化器センター」のまとめ役として、内科と外科のシームレスな診療をおこなっています。さらに、診断から治療まで一貫して行う「総合消化器外科医」の育成を目指しています。人口密度(医師密度、患者密度)が低い地方においては、活動範囲が深いが狭い消化器外科医(胃がん手術の専門家など)よりも、広い範囲を診る専門医が必要です。診断から治療まで行うことができる総合消化器外科医は地方の消化器診療の切り札になるのでは、と考えています。

4)院外活動
①2010年、本荘第一病院となりの広大な河川公園で8,000本のキャンドルをともし、歌や踊りで盛り上げる「癒しの川キャンドルナイト」を立ち上げ、今では毎夏の恒例行事になりました。

 



②2014年、一般市民を対象とした「由利本荘にかほ健康学校」の立ち上げに参加し、初代校長として活動する予定です。

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学生、研修医にメッセージをお願いします

医師としてのピークは、50~60歳代に訪れる、と僕は思っています。ですから、「今の自分」にできる事(できそうな事)、できない事を基準として今後数十年間の方向を決めるのは、ちょっと心配です。30年後も同じ気持ちで頑張っていけるだろうか・・・。10〜20年後に、こんな事できるようになっていたらいいなあ、という「未来の自分」を基準として方向を決めた方が、遣り甲斐のある楽しいキャリアになるのではないでしょうか。憧れの医師像を目指してください!

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履歴書
出生地
秋田県
出身高校
秋田高校
出身大学
1988年(昭和63年) 秋田大学卒

卒業後の職歴

1988年
秋田大学医学部第一外科
1989年
秋田組合総合病院外科
1989年
−1993年
秋田大学大学院
1993年
市立秋田総合病院外科
1994年
−1998年
秋田大学医学部第一外科医員
1998年
-2000年
米国University of Minnesota, Dept of Surgery
2000年
秋田県成人病医療センター外科
2001年
秋田大学医学部付属病院第一外科助手
2003年
秋田大学医学部附属病院第一外科講師
2008年
本荘第一病院外科診療部長

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