エキスパートドクター

あきたの医療の担っている様々な分野のエキスパートドクターをご紹介します。
第一線で活躍されている先生方にお話を伺いました!

No.25H27.6掲載日

秋田大学大学院医学系研究科
循環器内科学・呼吸器内科学講座
准教授

渡邊 博之
先生

「良さがわかんないけどやってみる。」
「だまされたと思ってやってみる。」
というのも、自分の成長につながっていく
一つの方法かもしれません。





渡邊 博之 先生

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医師になるまでの経歴を教えてください

私は、県南の雄物川町(現在横手市に合併)出身です。昭和60年に横手高校を卒業し、秋田大学に入学、卒業後現在の循環器呼吸器内科(第2内科)に入局しました。ですから、後ほど紹介いたします海外留学の期間を除いては、ずっと秋田に在住していたことになります。

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医師になろうと思ったきっかけを教えてください

高校1年を終わる頃に医学部進学を決めました。しかし、その際しっかりした意思を持って医師を目指したわけではありません。それまでは、恥ずかしながら自分の将来について深く考えたことがなく、高校1年の終わりに理系か文系かの選択を迫られた時に、初めて自分の進路を考え始めました。ですから、子供の頃から医師という職業に憧れ、それを目指していたのではなく、むしろ子供の頃は、自分が医師になるなんて夢にも考えたことがありませんでした。私の実家の周辺はほぼ無医村に近く、医師が身近な存在でもなければ、職業として意識することもなかったのです。
田舎の長男に生まれたこともあってか、大人になっても秋田に残ることを、漠然とですが決めていました。ただ、秋田に残るという条件で、いざ将来の職業を考えると、自分にとって魅力的なものはなかなか見つかりませんでした。そういった状況で悩んでいると周囲から、「医者という職種は誰からも尊敬され、また人を助けるやりがいのある仕事だ」といった内容で医師を勧められ、そのうち自分自身もすっかりその気になってしまいました。それが医学部進学の動機です。
ですから、他の医師とは違い高い理想を持って目指そうとしたわけではなく、恥ずかしながら何となく良さそうだという気持ちで医学部を目指したというのが、本音です。田舎の高校生で、精神的に幼かったのだと思います。

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診療科を選んだきっかけはどのようなことだったでしょうか?

医学部の学生時代は講義をさぼり、まじめな学生ではありませんでしたが、試験前日だけはほぼ徹夜、つまり一夜漬けで通り抜けてきました。そして、6年生の終わりに第2内科に入局することを決めました。
「なぜ第2内科に?」ということも良く聞かれますが、自分のイメージする医師というものに第2内科の医師が一番近そうに思えたからです。そういった安易な理由で決めてしまったものですから、入局しても循環器をやるのか呼吸器をやるのか決めておりませんでした。循環器医になったのは、その後研修医、大学院生時代のローテートで循環器領域を回らされたことがきっかけです。

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研修医時代はどのように過ごされましたか?

研修医時代の最初の半年は大学病院で、残り1年半は市立秋田総合病院循環器内科で過ごしました。その研修医時代が最も肉体的にはつらい時期でした。ほぼ毎日帰宅できるのは日付が変わってから、年間の三分の二は当番、完全主治医制なのでいつもポケベルに縛られていました。本当にきつい時期でしたが、あの頃があったから、今も頑張れているような気がします。今となっては懐かしい思い出です。
そのきつい研修医時代にも少しずつ慣れ、ようやく「医師としてやっていけるかな?」と思い始めたころ、突然また転機がやってきました。第2内科の当時の教授から「大学院を受験して、来年から薬理学講座に行ってイオンチャネルの基礎研究をやりなさい」と言われたのです。ようやく臨床の楽しさが分かり始めた頃でしたし、自分はイオンチャネルなどの電気生理学が、学生時代から一番苦手で嫌いな分野でした。ですから、内心断りたい気持ちでいっぱいでしたが、教授には逆らえません。「わかりました。」とだけ答えました。それが、私が電気生理の基礎研究を行うようになったきっかけです。

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基礎研究室時代はどのように過ごされましたか?

当時の薬理学教室はイオンチャネルの研究を行っていました。主宰されていた先生は厳しい方で、研究テーマは与えてくれましたが、それ以外はほとんど教えてくれず、いつも自分で調べるように言われました。当初は臨床が懐かしく、「何でこんなモルモットばかり毎日扱っていなければいけないのだろう、まして苦手な分野で」と気がめいる日々でした。しかし、それでも毎日やっていくと少しずつその学問の面白さが分かるようになり、1年後何とか論文を書き上げることができました。この時期、他人に頼らず自分で調べろと教えられた経験が、その後ゼロから出発しなければならない状況下でも何とかやっていくのに非常に役立ったと思います。
基礎研究室に行って1年半後、生活にも慣れ、ようやくその面白さがわかり、結果も出せるようになったその時期、また急に転機がやってきました。第2内科の当時の教授から「今度新しくうちの関連病院になった公立横手病院に行ってくれ」と言われたのです。それは、医局のフロンティアとして、一人科長で行けということでした。

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その後のキャリアを教えてください
【公立横手病院~脳研時代】

今では4年目の医師、それも基礎に1年半いた医師を1人で関連病院に勤務させるなどということは、もうないでしょう。しかし私の頃はまだそういうことが、起こり得ました。1人で循環器・呼吸器内科を背負うというのは、いくら小さい病院だったとしても、大変なことでした。自分を助けてくれるのは教科書だけというさびしい環境で、何とか1年近くの勤務を終えました。でも、この経験も今では良い思い出です。
その後、半年間だけ大学に戻り、次に秋田県立脳血管研究センター(以後、脳研)の循環器内科に勤務することになりました。脳研には2年ほど勤務しましたが、この病院はこれまでの病院と異なり、あまり急性期の循環器患者は来院しないため、ゆっくりした時間を過ごさせてもらいました。
ここでの収穫は、心エコーをやるようになったことです。それまで、心エコーは(良い画像を)出せないし、見えないし、見てもわからないと苦手意識の塊で、できるだけ近寄らないようにしていました。ですから、わかりやすい心カテの方に多くの時間従事してきましたが、脳研での時間的余裕が心エコーを始めるきっかけとなり、徐々にその楽しさがわかるようになったのです。

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【秋田大学~ベルギー】

脳研には、2年ほどいて、その後大学に戻りました。その頃には医局員もかなり少なくなっていたため2日に1回は急患当番をしていた記憶があります。臨床にずっぽりはまっていたのですが、そうしていると「もっと自分が経験したことのない世界を見てみたい」という気持ちが、ふつふつと湧き、自分の中で強くなってきました。それまで何度か海外留学の話を薬理学教室の先生からいただいていたのですが、いろんな事情で頓挫していました。ですが、この時ばかりは、ラストチャンスと思い、第2内科の当時の教授にお願いをし、ベルギー王国に留学することになりました。
決まった時は嬉しかったのですが、いざ決まってしまうと、少しずつ不安が大きくなってきます。「世界的に有名な教授の下でやっていけるのか?」「ベルギーって英語通じるの?何語を話しているの?」そもそも、周りにベルギー王国に行ったことのある人間なんていなかったのです。多くの不安を抱えながら、2000年6月、家族を連れて、ベルギーに旅立ちました。

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【ベルギーでの海外留学時代】

これまで秋田を離れたことがなかった自分にとって、言葉もわからないベルギーへの移住は毎日が苦難の連続でした。ちなみに、ベルギーでは英語が通じることが多いのですが、オランダ語、フランス語、一部ドイツ語が公用語です。道路の標識をみても、新聞、ニュースを見ても何もわかりません。市役所からの公文書も理解不能で、その際はラボに持って行って英語に翻訳してもらっていました。
ベルギー時代のボスは、ドイツ出身でベルギーのルーヴェン大学の教授になった人で、この人も非常に厳しく、そして優しい人でした。誰よりも早く出勤し、誰よりも働いていました。私は1年を経過したころから、成果がでるようになり、最終的には良い結果を残せたかなと思います。
結局、2年7ヶ月ベルギーのルーヴェンに滞在しました。留学することになって、さんざん苦労はしましたが、いろんな価値観の人間と交わり、さまざまなヨーロッパの文化に触れることができた経験は、自分を成長させてくれましたし、その思い出は自分の人生の宝だったと思います。自分にとって、ベルギーのルーヴェンという街は、第2の故郷です。

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【帰国後~現在まで】

私が帰国した平成15年に、当科の現教授が赴任されました。帰国直後は、以前にも増して医局員が少なく、かつ臨床研修制度がスタートしたため、最初の2年間は入局者も入らず、大学病院での仕事は大変であったことを記憶しています。それでも乗り越えることができたのは、これまで述べてきましたゼロから出発する経験が役に立ったのだと思っています。その後は現在に至るまで、大学に勤務しています。

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若いドクターにメッセージをお願いします

偉そうなことは言えないのですが、もし挙げるとしたら、以下のようになります。
私は大学病院、市中病院、基礎医学教室、地方の病院、海外留学など様々なところで働いてきましたが、今思うとすべて貴重な経験だったと思います。ずっと大学病院だけにいたら、今の自分は存在しなかったでしょう。若い時は、様々な所で、いろんな価値観を持った人達と接することで成長することができ、視野が広がり、その後の人生観を確立できる気がします。私の場合、自分が能動的に動いたというよりは、上司や周りに勧められ、あるいは命令され受動的に動いただけですが、それがむしろ良かったのかもしれません。若いドクターの中には、やりたくないことは拒絶し、やりたいことだけを主張するという方もいますが、あまりに目先の利益にとらわれていると、それ自体が自分の成長を止める気がします。「良さがわかんないけどやってみる。」「だまされたと思ってやってみる。」というのも、自分の成長につながっていく一つの方法かもしれません。食わず嫌いと似ていますね。
現在、私は基礎研究ではイオンチャネルを、臨床では心エコーを専門にしていますが、どちらも研修医時代には最も苦手な分野でした。それが今、自分の専門になっているのです。若いドクターは、この時期には、意に沿わないことでもトライしてみるべきだと思います。所詮、自分の現在の価値観も5年、10年後にはまた変化しているものです。一生食わず嫌いを貫いて、視野を狭めても楽しくないでしょう。もっといろんなことを経験し、失敗してください。若い時は、それが許される時期なのですから。

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履歴書

学歴

1985年3月31日
秋田県立横手高等学校卒業
1985年4月1日
秋田大学医学部入学
1991年3月31日
秋田大学医学部卒業
1992年4月1日
秋田大学大学院医学研究科入学
1996年3月31日
秋田大学大学院医学研究科卒業
1991年5月21日
秋田大学医学部附属病院・研修医(第二内科)


研究歴

1991年10月1日
秋田市立総合病院第一内科・研修医
1992年12月1日
秋田大学医学部薬理学講座(1992年4月より第二内科所属の大学院生)
1994年10月1日
公立横手病院内科・医員
1995年8月1日
秋田大学医学部第二内科
1996年4月1日
秋田県立脳血管研究センター内科学研究部・研究員
1998年1月12日
秋田大学医学部附属病院・医員(第二内科)
2000年4月1日
秋田大学医学部附属病院・助手(第二内科)
2000年6月26日
ベルギー王国ルーヴェンカトリック大学・Visiting Professor(生理学講座)
2003年2月4日
秋田大学医学部附属病院・助手(第二内科)に復職
2006年8月1日
秋田大学医学部附属病院・講師(第二内科)
2008年11月20日
秋田大学医学部・准教授(循環器内科学・呼吸器内科学)
2009年4月1日
秋田大学大学院・准教授(循環器内科学・呼吸器内科学)

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